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有本香さん、「中国 チベット政策正当化「民主改革」の成果強調」 ⇒「農奴」という言葉がふざけている!

YouTube 【DHC】2019/3/28(木) 有本香×竹田恒泰×居島一平【虎ノ門ニュース】
「中国 チベット政策正当化「民主改革」の成果強調」のニュース解説の中で。

(有本香)
 何を言っているんですか? 「農奴」 という言葉がふざけている!

※ 有本香さんのニュース解説の中でのコメント、チベット政策の「農奴」という言葉が
  ふざけている。という事について、
  裏付けとなる実際の中国共産党が何をしてきたということは、
  宮脇淳子著『封印された中国近現代史』(ビジネス社)の
  第8章内の「チベット自治区」(Page:306~308)に書かれている内容でわかる。
  以下の通りです。

  一九四九年、中華人民共和国建国直前に 「チベットは中国の領土である」 と宣言した
 中国共産党は、翌五〇年十月に東チベットを占領し、「チベットは祖国中国に戻った」と
 宣伝しました。

  人民解放軍の圧倒的武力の威嚇の前で、自前の軍隊をほとんど持たなかったチベットは、
 「中国の主権」を認めざるを得なかったのです。

  中国のチベット人は、チベット自治区の他に、青海省と癇癪省(チベット語でアムド)、
 四川省西部と雲南省西部(カム)にも住んでいます。

  つまり、チベット人の三分の一だけが現在のチベット自治区の領域に住んでいて、
 後の地域はもはやチベットとも呼ばれなくなっているのです。

  青海では、一九五五年から共産党が土地改良と称してチベット人の土地を奪いはじめ、
 これに対する抗議はすべて反革命運動と見なされました。

  一九五ハ年の青海アムド地区の平定作戦では、十三万人の反乱参加者のうち、人民解放軍が、
 十一万六千人を殲滅したということです。

  ダライ・ラマ十四世は、結局、一九五九年三月にインド北部に亡命しました。

  五百名に膨れあがっていたダライ・ラマ一行が解放軍の包囲を逃れて脱出できたのは、
 毛沢東がこれを承知の上だったことを示します。

  以後の反乱平定作戦は、きわめて過酷なもので、インド北部ダラムサラのチベット亡命政府の
 統計によると、一九四九年に六百万人いたチベット人のうち、一九七九年までに、百ニ十万人が
 戦闘・拷問・処刑・餓死により死亡したということです。

  その後も、チベット人の暴動を不可能にするために、優遇策設けてチベット自治区に漢族の
 移住を奨励し、行政と軍事は、傀儡のチベット人以外は漢族が握っています。

  チベット仏教を迷信とし、チベット語を無用で遅れた言語と教え、これに抗議するチベット人を
 すべて、民族分裂主義者として処罰し続けているのです。

  中国がチベットを手放さないのは、水や森林や塩や鉱物資源など、中国内地にはないものが
 すべてチベット高原にあるからです。