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【虎ノ門ニュース】火曜特集:アメリカ史上最強の陸軍 第442連隊戦闘団 

YouTube 【DHC】2019/3/19(火) 百田尚樹×上島嘉郎×居島一平【虎ノ門ニュース】
「火曜特集(アメリカ史上最強の陸軍 第442連隊戦闘団)」より

※ 第442連隊の情報を記憶しておきたいので、動画内の情報を文字にしました。  
  百田尚樹さん、上島嘉郎さん、居島一平さんのコメントは、一部を要約しています。  
  また、画面情報の解説以外に貴重なコメントも多々ありますが、大幅に割愛しました。  

アメリカ史上最強の陸軍 第442連隊戦闘団

第442連隊戦闘団

■ 大東亜戦争当時の米国日系人の志願兵部隊

■ モットーは GO FOR BROKE!(当たって砕けろ)

■ 総計1万8千近くの勲章や賞

ダニエル・イノウエサダオ・ムネモリが所属

サダオ・ムネモリ上等兵:
友軍のアメリカ兵を守るために投げ込まれた手榴弾の上に身を投げだして
戦死し名誉勲章を受けた。

アメリカで最も多くの勲章を受けた部隊。

アメリカ軍で最高に勇敢な部隊が第442連隊。日系人部隊。
戦死傷率(延べ)が300%以上の部隊。3000人の部隊で、戦死傷が9500人弱くらい。
何れ程勇敢に戦ったか!

 Go For Broke Monument  

第442連隊だけを顕彰しているのではなくて、当時の日系部隊全体の記念碑。

背後の壁面に日系人2世兵士16000人を超える名前が全部刻まれている。

星条旗が掲げられている下にあるエンブレムが主だった部隊、第100歩兵大隊、
第442連隊、第522野戦砲兵大隊というのが刻まれている。

碑文は、第100歩兵大隊にいたベン・タマシロさんという人が書かれている。

上島嘉郎さんの碑文の要訳(以下のような意味合いの事が書かれている。)

「強制収容所からやってきた我々が、米国への忠誠を示すために戦った。
 憲法上の権利を奪われたにも関わらず、不屈の精神と勇気を持って
 彼らは戦い抜いた。

 この戦いの遺産は、二度といかなる人々も自由とその市民権を否定される
 ことがないようにというその冷静な考えに立ち返るような思い出として
 役立つだろう。」

第442連隊戦闘団の編成

1941年12月  日本軍による真珠湾攻撃

1942年 2月  米国西海岸に住んでいた日系人約12万人が強制収容

1943年 1月  日本の「強制収容所は白人の横暴」という避難に
        反駁するため募集開始

※ 定員1500人に対し6倍以上が志願したため1000人増員された。

 日系人は人種差別の中、信頼を勝ち取るため志願  

日系人の強制収容は、アメリカの汚点ですね。

日系人はアメリカ人ですが、土地を奪う。財産を奪う。自由を奪って強制収容に
入れた。これは、人種差別です。
ドイツとイタリアとも戦争したが、ドイツ系アメリカ人、イタリア系アメリカ人に
対しては、そのような措置は一切とっていない。

これに対して、日系人の若者たちが自分たちはアメリカ人である。日本人の血を
引いているが、アメリカ人である。アメリカという国に対して忠誠を誓うんだ。
アメリカ人として認めて欲しいということで、アメリカの為に志願して戦った。
これが、第442連隊です。

当時、アメリカに渡った日系人はアメリカで生まれ育った2世の世代で
日系人の中には、日米両国の何れかに忠誠を尽くすべきかが、大問題と
なっていた。
アメリカに忠誠を尽くすことを決意した日系人には相当な覚悟があったという。

その逸話が色々残っている。

例えば、
戦後、アメリカの政界に進出して、上院議員にもなるダニエル・イノウエさん
あるいは議会名誉勲章を受けるサダオ・ムネモリさんであるとかその彼らが
1世の親からどういう風に送り出されたいったかという話を知ると
 (中略)
当時ある共同体や国に帰属をちゃんと認めてもらうためにはやっぱり血と命で
贖うしかなかったという過酷な時代があった。

 ダニエル・イノウエ氏の父からの言葉  

井上家はアメリカから大きな恩を受けている。
今こそお返しをする時である。
お前は母親にとっても私にとっても大事な長男だ。
しかし、しなければならないことはすべきである。
たとえそれが死を意味してもー。
井上家の家名に泥を塗るようなことはするな。

渡辺正清「ゴー・フォー・ブローク!」光人社

戦争前というのは、排日移民法、排日土地法によって入植してから永々努力して
得たものを全部奪われる。

その上で今度は本当にアメリカの信頼される市民として生きるには血と命で
贖うしかないと決断していった。

この過酷さを今日だからこそ知っておかなければいいけないと思う。

サダオ・ムネモリという方のご母堂も出征前(マンザナール強制収容所から出る時)に
「日本人として恥ずかしくないようにあなたの国、アメリカのために
 戦いなさい。」

アイデンティティーの問題で言うと、つまり日本人として恥ずかしくないように
アメリカのために戦う。

第442連隊戦闘団の活躍と偏見①

1944年5月~7月

イタリア戦線最大の激戦モンテ・カシノで多大な犠牲を払い進撃。

首都ローマを目指したが目前で停止命令が下され、後続の白人部隊が
ローマを解放。

第442連隊はローマに入ることを許されず、迂回して北方進撃を
命じられる。

酷い差別。第442連隊にローマを解放したという名誉を与えない。

第442連隊戦闘団の活躍と偏見②

1944年10月

ドイツ軍にテキサス大隊(失われた大隊)が包囲される。
休養が不十分だったが、ルーズベルト大統領の救出命令が下り、
ドイツ軍との激しい戦闘になった。

戦闘4日目、救出に成功するが、テキサス大隊211名を救うために
第442連隊は約800名の死傷者を出す

救出直後、テキサス大隊の隊員が涙を流して喜んだが
「ジャップじゃないか」と吐き捨てた白人兵もいた。

テキサス大隊211名を救うために219名が戦死した。約600名は手足を失った。

このテキサス大隊を救出した戦いは、アメリカの正史でも語り継がれるという
陸軍十大戦闘に数えられる戦いだったと言われている。

ジャップじゃないかと言われた彼らは「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。
言い直せ。」と激怒して掴みかかったというエピソードも残っている。

第442連隊戦闘団の活躍と偏見③

第442連隊の一部、第522野戦砲兵連隊はドイツへ侵攻、戦闘の末、
ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所の解放を行った。

しかし、日系人部隊が強制収容所を解放したという事実は 1992年まで
公にされることはなかった

ダッハウ強制収容所は、ユダヤ人の収容所。収容所には3万2000人くらいいた。

もちろん、日系の部隊だけが解放軍に加わっていた訳じゃなく他のアメリカの部隊も
いたわけだけれど、当時は米軍の第42、45師団が解放したという報道しかされて
いなくて、そこに日系部隊がちゃんと行っていたという事は、当の日系部隊の兵士に
対しても口外するなという風に命じられていた。

日系人を英雄にしたくなかった。

第442連隊戦闘団の強さ

■ ローマ北部のベルベデーレ戦は突破に数日かかると言われていたが
  第442連隊が要した時間は 3時間弱

■ フランス宣戦に参戦するため一度イタリアを離れたが、ドイツ軍が
  9ヶ月かけて築いた防衛戦を他の隊が全く突破できず、極秘で呼び
  戻された。
  「日系部隊が来たら1週間で突破できる」と期待された。
 ドイツ軍防衛戦は、第442連隊の奇襲作戦でわずか 31分で陥落

■ 前線に出てから約1年半で全ての司令官が欲しがる部隊となった。

出典:Lighthouseロサンゼルス

強かったという事だけを書いていますが、なぜ強かったかというと命を捨てて戦った
という事です。
戦死傷率が300%以上という自分の命を捨てて戦ったからこれだけ強かった。

なぜ命を捨てて戦ったというと自分が命を捨てることによって、祖国にいる両親が
収容所から出れるかもしれない。
日系人の名誉が自分が命を捨てることによって守られる。

アメリカ陸軍では、第442連隊の戦闘を学ぶ授業が必須科目となっているという事です。

第442部隊を実際の証言で振り返るドキュメンタリー映画
『442 日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』ワック株式会社から発売のDVDより

 ミノル・トウナイ(前日米文化会館会長)の証言:東条英機から手紙  

私がコンプトンの日本語学校に通っていたいたのは、
戦争が始まる直前だったので1941年だったと思います。
ある日、校長が朝礼で話をしました。
日本の総理大臣、東条英機から手紙を受け取ったという。
これは君たち二世への手紙である。

君たちはアメリカ人である。
従って君たちの国に忠誠を誓わなければならない。

私は驚きました。
彼は日本人であり私も日本人の血をひく者です。
だから、アメリカの為ではなく日本の為に戦えと言うと思ったのです。
私は自分がアメリカ人だとは思っていたものの驚きました。

なぜ彼がそんな事を言ったのか考えてみました。
そして気がついたのです。
彼は軍人であり武士道に従って行動するのだと。
武士は君主と祖国に忠誠を誓わなければならないのです。
東條にとって我々がアメリカに忠誠を誓うのは自然の事だったのです。

交戦中の敵国である日本の東條英機首相が日系人に向けて、アメリカの為に
戦えと手紙でわざわざ伝えていたという。
これは、教科書じゃまったく出てこない話ですね。

当時、日系二世の若者が自分の祖国はアメリカであるという事で自分の血と命を
もってアメリカに忠誠を尽くしたことは凄いです。
今日本にいる在日の三世・四世・五世はもう反日は辞めてもらいたい。本当に。

日本で生きるということを決めたのであれば、今の時代だからこの時の日系二世の
ようなことまでは求めないにせよ、しかし、日本を愛する気持ちがないのであれば、
祖国に帰ってくれと言いたくなる。

日系人部隊の名誉回復①

■ 1946年 トルーマン大統領

 「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した」と称賛。

■ 1988年 レーガン大統領

 強制収容政策をアメリカ政府の過ちと認め、日系人に謝罪と補償を行った。

■ 2010年 オバマ大統領

 最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を第442連隊に授与した。

トルーマンが二つの闘い(戦い)に勝ったと言った。人種偏見にも勝ったと
彼は言ったが、実際にはその後の長い長いが続くわけです。

有名な話は、帰ってきたダニエル・イノウエが散髪をしようと思って床屋に入った。
そしたら、ジャップの髪は切らない。出て行けと言われた。

その時にイノウエ中尉の制服には、右腕を失った代償として彼が勝ち得た勲章を
下げていて、つまり名誉の戦いをし抜いた人間だってわかるはずなのにそうされた。

ダニエルさんに関して言うとこの時その第442連隊の指揮官からは議会名誉勲章が
申請されていたにも関わらず陸軍省はそれを却下した。
次の位の殊勲十字章になった。

でもこれは戦後55年経った2000年になって、当時のクリントン大統領から改めて
議会名誉勲章が授けられているんだけれども、そこまで時間がかかる。

アメリカが本当に日系人を認めるという形になるまでは、それだけの時間が
かかっていて、排日土地法であれ排日移民法であれ連邦政府によって
排日移民法が排日土地法を含めて廃止されるのは、1952年までかかる。

何れ程長い時間をかけて彼らは戦い抜きてしかも戦争が終わった後の闘い
というのは、どんな偏見を受けてもいかに立派なアメリカ市民として振る舞い
続けるかという事だった。

日系人部隊の名誉回復②

■ 第442連隊が「失われた大隊」を救出するために通ったフランスの道は
  「第442連隊通り」と命名。
  記念碑に 「国への忠誠ちは、人種のいかんに関わらないことを改めて
  教えてくれた米軍第442連隊の兵に捧ぐ」
と刻んである。

■ 第442連隊出身の故ダニエル・イノウエ上院議員にちなみ 2017年、
 ハワイのホノルル国際空港が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」
 改名。