※ 福永晋三先生の説(参考のYouTubuより)の比定地の位置を管理人の興味で示したものです。
江田船山古墳(江田船山古墳の主:3名)
※ 江田船山古墳の主(YouTube:福永晋三先生の2015年和水町講演会より)
江田船山古墳 ■形状:前方後円墳 ■規模:全長62m、高さ10m ■築造年代:5世紀-6世紀初頭 ■被葬者:ムリテ、他
■出土品:銀象嵌銘大刀、銅鏡など(国宝) ■史蹟指定:1951年(昭和26年)国の史跡
江田船山古墳の主2 ・・・ 倭五王と同じ年代、古墳の被葬者は3名(倭国王に仕えた人)
古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されている。このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという
独特の型式は、石人山古墳に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳で最盛期を迎え、以後、消滅する。この岩戸山古墳が
527~8年にヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の墓であると目されている。江田船山古墳も筑紫君
一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。
なお、最近の研究では、この古墳の被葬者は、3名であると考えられている。 (ウィキペディアより)
継体朝 = 新邪馬台国王権
筑紫君 = 火君・水沼君・玉垂命・倭国王
江田船山古墳の主3 ・・・ 倭五王に仕えた将軍
純金製の耳飾りや鍍金された沓や冠、それに馬具類などを見ると、「頭には金銀に輝く冠や耳飾り、胴には頑強な
甲(よろい)を身につけ、金銀で鍍金した馬具で正装した馬にまたがり、高くかかげた大刀に太陽の光を反射させながら
軍団の前に現れる」、そんな強烈な豪族
5世紀後半、6世紀初頭、それに6世紀前半の3つの時期
■ 菊池川流域で最も重要な古墳
耳飾や沓、冠帽、冠は、朝鮮半島から輸入したものと考えられ、当時わが国と朝鮮半島とのあいだには密接な関係が
あったもの (和水町)
江田船山古墳の主4 ・・・ 一番古い時代、最初の被葬者
5世紀後半 ・・・ 石人山古墳(磐井の祖父)に使えていた
四五一(宋 文帝 元嘉二八年) 安東将軍倭王倭済進号 (『宋書』本紀)
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加う、
安東将軍故の如し、並びに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に
除す (『宋書』列伝)
⇒ 江田船山古墳の主: 被葬者3名の一人目は、倭済に仕えた二十三人の軍郡の内の一人
江田船山古墳の主5 ・・・ 6世紀初頭、倭王武の時代
6世紀初頭
四七九(斉 高帝 建元 元年) 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国将軍安東大将軍倭王武に
新除し、号を鎮東大将軍と為す (『南斉書』列伝)
五〇二(梁 武帝 天監 元年) 武、進号征東将軍 (『梁書』本紀・列伝)
武、進号征東大将軍 (『南史』列伝)
江田船山古墳の主6 ・・・ 倭五王は、律令制を有して、裁判を行っていた
6世紀前半 ・・・ 裁判が行われていた場所が、 岩戸山古墳(磐井陵)
東北の角に当たりて一つの別区あり、号けて街頭(がとう)と曰ふ。 (風土記逸文)
江田船山古墳の主8 ・・・ 鉄剣の象嵌銘
天の下しらしめしし、ワガタケル大王の世、典曹に奉事せし人、名はムリテ、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を
あらわす。八十たび練り(九)十たびうつ。三寸上好の(利)刀なり、この刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、
恩を得るなり。そのすぶる所を失わず。刀を作る者、名はイタ(ワ)書するのは張安なり。 (和水町)
* 水沼皇都の工房で作られた。同じ工房で作られたかもしれないのが、「 稲荷山古墳の鉄剣 」。
* 典曹:今の言葉で法曹。法律を司った人。6世紀初頭、「ムリテ」は、倭武に仕えた裁判長。
* 稲荷山古墳の鉄剣の「杖刀人」は、水沼皇都から派遣された地方長官(物部氏?)。
常陸国風土記に出てくる「倭武天皇」=倭五王(武)が埼玉県付近まで巡守した時の譚。
江田船山古墳の主9 ・・・ 二人目の被葬者:ムリテ(无利弖)
『古の天子、良辰美景ごとに、侍臣の宴筵に預金る者に詔して和歌を献らしむ。』 (古今和歌集 真名序)
『二年(四八六)の春三月の上巳に後苑に幸して、 曲水の宴 きこしめす。是の時に、喜(ねむごろ)に公卿大夫・臣・連・
国造・伴造を集へて、宴したまふ。群臣、頻に万歳を称ふ。』 (日本書紀 顕宗天皇紀)
倭王武(倭が武、倭武天皇)の御代に久留米市朝妻の宮殿で曲水の宴が開かれ、ムリテは侍臣の一人として参加した
かも知れない。
結 論
⇒ 江田船山古墳の主: 三人目の被葬者は、6世紀前半の史料が見つからず、不明
<所在地のGoogleマップ>